猫に仏性ありや
TKC武田会長が会報に般若心経と会計をテーマに論文を書かれ始めた。極めて興味深い連載になるのだろうと楽しみにしている。第一稿から会長お得意の図式解明方式を使われているが、図に表すことで無、空が無、空でなくなるのではと感じた。色即是空は色即色、空即空を受け入れることことから、ということだろうと観念していたので、若干の違和感をおぼえたところである。勿論批判などではなく単なる感想でしかない。
先日始めてヤフオクなるものでものを買った。かなり以前に紛失してしまっていた碧巌録(岩波上中下巻)だが、絶版で諦めていたところ良心的な古書店から出品されたので入手できた。臨済禅のバイブルの様なものだが、禅宗三派に共通するものであろう。
有名な禅問答に、狗に仏性ありや、というのがあるが、我が家の御歳18才(猫では婆ぁの部類)の猫は、全く在るがままの好きなときに食べ、好きな様に寝るという暮らしをしており、かと思うとたまに野生が目覚めたり、融通無碍である。
抜け毛をまき散らし、こすりつけ、吐いて回るが、生あるものがそこに在る、という、ただそれだけのことで仏性ありと言わざるを得ない。但しその時点で仏性なしでもあるのだろう。
最早、怪猫と呼ぶにふさわしいのが、いま水を飲んでいる。
それを見ている自分自身は一体何だ? 思考の枠外に自分をおくことが出来ない未熟なままである。
ありもしない自分のプライド、自尊心というより自意識過剰にチョットでも動揺を受けると他人の所為にする輩が最近多い。哀しむべきかな我自身。自分自身の現在の姿が反射していることに自分が気づく。ここから人格形成がようやく始まるのだろう。
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