やるせなさ
某著名税法学者の最新「税法学」(題名は若干異なる)論文を読んでいて、何とも空虚なやるせなさを感じてしまった。果たして税法学なるものが今、あるのか?
政治力学(献金力も含め)と一部御用学者的(失礼m(_ _)m)論理がごちゃごちゃに入り乱れ、法の理念も、整合性も吹っ飛んでいる昨今の税法改正は、古い言葉だが、一度ガラガラポンをしないと、理念の実践を目指している法、税法には戻れない感じがする。
もともと、税法はテクニック論、財政帳尻合わせの道具程度にしか認識されていないのがおおかたの基本六法学者先生の本音だろうが、恐らく、人間が社会を形成していく際に民法概念より先に税法(勿論当時は法律の態をなしていなくとも)概念と実践があった筈。
先ずは、権力、力ある者への貢ぎ物として色々な形で税が動き出し、その後その制度化と、集団化の過程で民法的約束事が形成されていくのが歴史の常道であった。
ヒトが生きていく上で、安定と安全、相互扶助を求めその共同生活の必要経費としての税を認識したのはそんなに古い時代では無いだろうが、基本的生存、存在を維持するための財産権の放出(侵害とまではいいたくない)を、当然のこととし、在るべき、納得できる制度を求めている時代になっている。
ところが、現在はあまりにも安易に徴税側の数字合わせと取りやすさ、租税法律主義の悪用(とまではいえないが)的手法があまりにも眼につく。
そもそも、年金課税にしても、手のひらを返した様な老年層は富裕層たる評価換えで、年金などの心配をすることもない、一部の「恵まれた」(羨ましくもないが)識者なるものが勝手に理屈をこね回した結果でしかない。
また、バカげた個人給与所得控除額の法人側での課税など、担税力無いものに課税するのは、帳尻合わせとテクニック論以外の何者でもない。何でもかんでもアメリカ追従で来たのに税制だけは附加価値税EU方式を採用するのも解せない。
所得税総合課税、超過累進税率の強化を何故考えないのか。ほりえもんや村上逮捕のニュースは、いまだ老世代に牛耳られる日本の構造を垣間見たが、個人の能力と創造性は日本では未だ暫く発揮出来ない。勿論ごく少数の実践者はいるが、人口比で低すぎる。 成功者は清濁併せのむのもいれば、清廉潔白のもいる。ルール違反は事後チェックの構造改革だそうだが、ここまでくると、老毛の文化大革命とそう大差はない。
中国が個人課税を強化し始めた現状をどう解釈しているのか、大先生達に是非ご教示願いたい。村上が「稼ぐのは悪いことですか?」とインタビューに応えていた。識者(?)は、ルールさえ守れば・・・云々と。
そんな分かり切ったこと言ってる暇があれば、稼ぎにどうやって、どのくらい課税するのが正しい税なのか、考えるべきだ。成熟社会と言われる今、ちゃちなその場対応の税制改革なるものは本物ではない。
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