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2010年3月20日 (土)

還暦夫婦かぁ・・・・

自分の2月に続いて、カミさんも今月還暦!!

若くてバリバリの夫婦とずーーーーっと思っていたが時間とは容赦がない。

娘夫婦、娘の友人達がパーティを開いてくれた。嬉しかった。

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先ず、決してススキノのお店ではなく、真っ昼間であることは強調しておきたい!!!

このメンバーで間違いなく売れ筋の店が出来るのは間違いないが。

とても暖かく、フレンドリーな雰囲気で、仕事関係では味わえない素敵なパーティをしていただいたことに夫婦で心から感謝をし、お礼を言わなければならない。

ありがとう・・・・・・・・・・

(娘夫婦に挟まれて)

参加してくれた皆さんがそれぞれの人生の機微、悩みを抱え、そして突破しようという思いの強烈さに大変感銘を受け、娘夫婦の友人であることに心から感謝し、ありがたいと思った。

ついつい、酔っぱらって、これを月例会に!と口が滑りそうになったが、かろうじて我慢!

またなにかの折節にみんなが仲良く集まってくれたらなぁ、と親としては願っている。

参加してくれたプロの漫画家(全国誌に掲載中)に似顔絵を頂いた。似ているんだけどどこか違うのかなぁ、と思っていて、髪の毛のしっかりしているところだと気がついた。こんなにしっかりしたものではない、という自覚をしながら・・・・・・・・・・

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実態に比べかなり気を遣っていただいたことに文句もいいようもなく、本当にありがとう。

そのほかにも色々とプレゼントなどを頂き、羽根ペンセットは大ヒット!

子供の頃から羽根ペン、インク壺などに興味があり感激!

参加してくれた友人達、君たちはとても素晴らしい自分を持ち、悩みながらシャキッとした自分を持ち、持とうとしている。素晴らしい人たちです。

ありがとうね。

最後にカミさんに贈ったブリザードフラワーを。

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2010年3月 9日 (火)

感謝

また、還暦と骨折お見舞いをMさんからいただいた。

201003081949000_3 これはイタリアの発泡ワイン。残念ながら娘にやられてしまいそう。

頂いたのは、もう36年以上のお付き合いになるだろうか、当時、こちらは何も実務を知らない税理士、Mさんは急成長中の大手サッシ会社のバリバリの経理社員。

いろんなことを教わった。ちゃちな租税法のもっともらしい理屈など現場には関係ないこと、働くものの正しさや善をいかに会計や税がかかわっているのか。

所詮は政策が人の生きざまに無茶なプレッシャーと諦めを与えている実態はMさんに教えてもらった。

じゃ、税は、税を学ぶものは一体何を心のよりどころにすべきなのか?知識は人を救えない。何が自分の人生観の根本にあるのか、それが税に関係ないのか?

なんか、その時代から私の租税観が出来上がってきたようだ。

Mさんほど、一所懸命に自分のおかれた立場、その周りにいる人間たちを大事にされた方を残念ながら他にはあまり知らない。

所詮は税は財布からの拠出。また血は税なり。血には神あり。

いくら理由をつけても所詮応能負担、応益負担が明確に区分されていない現状では

租税法は遊び・・・・の世界に近い。庶民は意識してないからね。自然科学はあるべきものを探す。租税法はあるべきものなし。

それにしても、Mさん、松本さん。

ありがとうございました。

2010年3月 1日 (月)

チリ地震、再来かぁ。

1960年から50年、半世紀ぶりに同じパターンの津波被害のニュースに心がざわついた。

テレビ等の情報は詳細かつ最大被害を想定したものであり、地方によっては粛々と非難に応じていた映像をみると50年前のチリ地震津波だけでなく、その後の多くの天災の教訓が生かされてきた、阪神淡路のあの不幸な災害の対応が人ごとではないのだ、という感性が日本人にようやく根付いてきて何よりだと安堵した。

 50年前、北海道噴火湾の一番奥、湾への入り口が極めて狭い小さな湾の奥に住んでいた。湾は一般道路に接し、勿論人も車も往来するのだから、満潮時に少し風が強いと潮水が冠水し、飛沫が車の傷みを激しくする。一応岸壁はあったが道路面と同じ高さで、堤防の役目はなかった。自宅はその道路に接し、つまり海と自宅までの距離は僅か2台の車がそっと行き交う程度しかなかった。

今考えると、あの当時どのような情報管理システムが機能していたのか、何故か早朝から津波が来るらしい、ということは誰もが知っていて、道路上から湾を見つめていた。

普段から干満の差が激しく、海苔の生産が盛んで、満潮時にはあのからすみ、いや多くの鯔が飛び跳ね、冬には白鳥が飛来する静かな、豊かな湾であった。

早朝、一度ヒタヒタと水位が上がり始め、冠水まではいかないまでも、道路面とほぼ同じ高さに達したときは非難の体制に入った。

 ところが、後で知ったのだがこの後が一番怖い。水が引き始めたのだ。みるみるという早さで水位が下がり、日頃の干潮の引きとは3倍以上のスピードで湾の海底が全て表出した。取り残された鯔やその他の魚があちこちで跳びはねている。あれほど湾内が空っぽになったことはかって見たことがない。

 2回目が来るぞ!という地元の漁師の言葉に多少の恐れを感じながら、朝食前、登校の準備もあり、先ずは済ませてしまおうと確か納豆でさっさと食事を始めたときであった。

来たぞ! 非難だーの声で窓外をみると、もはや道路は海水に浸され、玄関に入り込んだ海水は見る間に水位を高めている。

父親は私と、当時遊びに来ていた従兄弟を抱え、目の前にある地蔵尊の社の階段を駆け上がった。自宅を見下ろすと床上1メート以上までまるで海の中であり、ドンドン上昇している。

高波は激流が覆い被さるのに対し、津波は規模にもよるがヒタヒタと水位が上がり続ける。静かだが恐怖は変わらない。

 当時小学5年生だった私の鮮明な記憶はそこまでで、後は一面の海面状態にボートが助けに来てくれて祖母の実家に何とか非難して数日間をそこで過ごした。

従来通りの生活に戻るまでは何ヶ月もかかったそうだ。当時は水洗トイレでもなく衛生状態は極めて危険な状態だったと聞いた。

今回は地震規模が50年前程ではなかったことが良かったのか、海底や海流の状況が変わったのか、当時100名以上の死者等をだすような悲惨な結果にはならなかった。勿論情報通信、災害予測システムの向上が奏功したのだろうと思うが、奥尻の津波の様に近接で直下的な地震では未だに十分な非難体制は確保されていないのでは?と危惧が残る。

当時、おそらくは激甚災害法が適用されたと思うが、今回はどうなのだろう?激甚の定義は相当大規模な想定がされているが、今回も海水につかった家屋や未だに非難している方々もおられるのだろう。彼らが一人でもいれば何らかの行政、申告、徴税など柔軟に対応するやさしさが必要だろう。

災害は、被害者の数ではなく被害者個人の視点である。法は量を求めるが間違いだ。

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