二つの5月23日
本日5月23日は、亡くなった父親の十七回忌になる。
言い古された言葉だが、まさに早いものだとつくづく思う。
こんなコロナ禍の真っ最中、しかも札幌は連日新規感染者(陽性者)過去最高を更新中で、
とても法事等不可。
登別温泉の檀家寺のご住職には十七回忌のお経をお願いした。
参加者は残念ながら誰もいない。
父親が珍しく関心を持っていた伊達市の旧宅の庭にあった御衣黄はもう咲いただろうか‥‥。
5月申告の終盤で、法人の職員さんに多くの迷惑を掛けてしまったがお蔭で伊達でもかなり大きな葬儀を出すことが出来た。
地元の多くの方々に最後を見届けて頂いたことがせめてもの親孝行だったと思いたい。
二つ目の5月23日、それは1960年。
なんと小生は10歳で有珠小学校5年生になったばかりの頃。
あれから61年も経ったとは!
いつもの朝、前日からニュースが入っていた太平洋の彼方のチリ地震によるツナミがどう襲ってくるのか。
自宅から未舗装の狭い道路を横切るとそこはもう海。
干潮の差が結構あり、海苔の養殖等が盛んな有珠湾。
みるみるうちに、その有珠湾からすっかりと水が引いた。
流石にあそこまで引いた湾を見たことはなくかなり驚いた。
海水が見当たらない。
と、水が戻り始めた。みるみるうちに足元岸壁の10cmまで迫った。
流石に怖くなったが、何とまた引き始めいつもの干潮レベルに近い様に感じた。
もう来ないだろうと殆どの人間がいつもの朝食をとり始めた。
私も同様で岸壁からは道一本の官舎で、偶然遊びに来ていた従弟、両親と納豆などで朝食を始めた。
と、誰かが叫ぶ声が。「おーい、海が岸壁を超えたぞーーーーーーーー」
外を見る間もなく、玄関に海水が侵入し始めていた。後は異常な速さでその水かさが増えるのみ。
その後の大騒ぎはとてもここでは書ききれない。
小さな手漕ぎ漁船に乗り何とか地面がある所まで移動し、洞爺湖温泉にあった母親の実家に避難。
どのくらい居たのかは憶えていない。
戻った時、くっきりとツナミ線が家の中どこでも地面から1メートル以上も高いところにあった。
復興は結構時間が掛かった程度の記憶しか残っていない。
その年の9月6日には札幌のある治療療養施設に入院するため親元を離れることになる。
その後は、高校受験時の1年半、税理士試験受験時の約1年半の計3年、親元で暮らしたのみである。
何とも人生の節目に当たるのがこの年、1960年ではあった。
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